王家の風日(宮城谷昌光・著)

宮城谷昌光さんの小説「王家の風日」を読みました。

亡国の宰相・箕子を主人公にした物語。古代中国の商王朝最後の王である紂王の叔父で宰相として仕えた箕子。舞台となる時代は商(殷)末期で同じ宮城谷昌光さんの『太公望』と同じ時代を真逆の立場から描いています。

因習と呪術に縛られた末期商王朝では、紂王受はむしろ開明的な王で、開明的であるがゆえに独善に陥り破滅への道を進むというのは『楽毅』における武霊王や、『天空の舟』における傑王にも通じる描かれ方です。

有能で自らを恃むリーダー(王)が破滅していく展開は古代中国物では多く見られる気がします。中国思想に依るものか宮城谷さんの思想に依るものか、その両方かと思いますが、「王家の風日」での紂王受も同じような道をたどります。

叔父として宰相として紂王受に愛を注ぎながら、開明的であるが故に受け止めてもらえない箕子の思いは滅んでいく国・組織の補佐役の苦悩が丁寧に描かれていきます。

宮廷らしく様々な登場人物の思惑が蠢く様も読みごたえのあるところで、比干・費中・崇侯・悪来などなど、あくの強い登場人物たちの思惑と行動が商末期の宮廷を描き出します。

なかでも、商サイドから描かれる本作では、比干のまっすぐ過ぎる忠誠が目を惹きます。思惑渦巻く宮廷にあっては、そのまっすぐさが活かされることなく非業の死に向かっていく様に考えさせられます。

出来れば「まっすぐ」生きたいものだと思いますが、(比喩表現でなく)命がけで「まっすぐ」でいられるかどうかということは、古代中国モノで必ず現れる命題のひとつのように思います。極北は『晏子』に登場する晏嬰のように思いますが、比干の場合は残念ながら誅殺されてしまいます。

箕子はそれらに眼差しを送りながら、生きながらえた自分自身への自嘲的な視線も隠すことなく亡国を受け入れていく、それも潔さなのではないかと感じました。

読後感

滅びゆく国、かといって当事者にとっては確定した訳ではない組織にあって、身の処し方に思いを馳せる本作でした。まして、紂王受へ愛情を抱く箕子の裂かれるような思いの中で身を全うした立ち居振る舞いの潔さについて、亡国の寂寥感とともに爽やかさも感じました。

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